「名前を呼んでみたら?」
ずいぶん前、ある審判員にそう話したことがあります。「試合中、とてもうるさい監督がいて、大変なんです」と、悩みを打ち明けられたときです。
「レフェリー!ファウルだろ!カードじゃないのか!」
そのようなことを叫び続ける監督は、だいぶ減りましたが、まだたくさんいます。審判員から「黙って!」などと声をかけても、逆に怒りの油に火をそそぐようなことさえあります。
そうしたときには、近づいていって強く注意するより、明るい顔と明るい声で、遠くから「○○さん、落ち着いて」と言ったら、案外効くのではないかと思ったのです。
人間というのは面白いもので、名前を呼ぶと互いの関係がまったく変わります。名前を呼ばれた人は、自分が相手に一個人として認められたことを意識し、人格をもった個人同士として向き合わなければならなくなるからです。当然、その言動にも責任感が生まれます。
8月9日に行われたJリーグ第9節、セレッソ大阪対FC東京の1シーンが話題になっています。
前半の終わりごろ、C大阪の右CKからの競り合いの中で、守備に戻っていたFC東京のFW永井謙佑選手が倒れました。相手選手に押されるのを見ていた山本雄大主審はすぐに笛を吹いてプレーを止めると、ペナルティーエリアの中央にうつぶせで倒れたままの永井選手のところに駆け寄ります。
この日の観客は4840人。「5000人限定」の制限試合なのでほぼ「満員」ですが、ヤンマースタジアム長居の巨大なスタンドにはまばらにしか観客がいません。そのおかげで、テレビ中継では、山本主審の言葉をはっきりと聞き取ることができました。
「永井さん、大丈夫?」
最初の言葉が驚きでした。選手を名前で、しかも「さん」をつけて呼んでいるのです。そして、その後の言葉は、それ以上でした。
「肩?永井さん、どこ?ゆっくりで(立てば)いいよ。けがしたところだよね、前。いける?」
永井選手は昨年11月の試合で右肩を脱臼し、シーズン後に手術を受けました。2月の今季開幕には間に合わなかったのですが、Jリーグが4カ月も中断したこともあって7月から出場、チームの攻撃をけん引していました。
選手の名前を呼んだだけでなく、以前けがをしたところまで知っていて、気づかってくれる―。山本主審の言葉を聞いて、痛みに耐えながらも、永井選手はとてもうれしかったのではないでしょうか。
それはサッカーという競技で一般的に見られる主審と選手の関係ではありませんでした。通常、選手は主審に向かってトゲのある口調で「レフェリー!」と呼びかけ、主審も選手を注意するときには、「○○番!」と背番号で呼びつけます。「レフェリー」は役割名でしかなく、背番号に至っては「記号」に過ぎません。これでは、人間と人間として互いにリスペクトし合う関係など生まれません。
もちろん、主審がすべての選手の名前や過去の負傷歴を覚えることはできません。しかしコイントスのときに両チームのキャプテンの名前ぐらい覚えられるかもしれません。そしてまた、試合前に、「この試合を担当する○○です」と、選手たちに自分の名前を知らせることもできるでしょう。
山本主審は京都府出身の37歳。24歳で1級審判員になり、25歳のときからJリーグを担当、26歳で国際主審となり、31歳でプロ主審となりました。正しい判定をして当たり前、人間なら不可避な誤審があると大騒ぎされる審判員という立場のなかで、選手に対する優しさとリスペクトに富んだ言動は大きな反響を呼びました。
観客数制限のおかげで、私たちは主審から選手へのリスペクトの姿勢を知ることができました。選手や監督たちも、「レフェリー!」と怒鳴るのではなく、「○○さん」と呼びかけてみたら、次に出る言葉もおのずと変わってくるのではないでしょうか。お互いに名前を呼び合うことで、サッカーの試合という場をリスペクトあふれるものにできるかもしれません。
寄稿:大住良之(サッカージャーナリスト)
※このコラムは、公益財団法人日本サッカー協会機関誌『JFAnews』2020年9月号より転載しています。
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